月山富田城と尼子氏について

お城巡り

歴史

月山富田城の築城年は1156~1159年(平安時代末期)で、平氏の武将である悪七兵衛平景清(平景清)が築城したと伝えられています。ただ、詳しくは分かっていません。

尼子氏の歴史

尼子氏はもともと出雲国守護代(守護に代わって実際に政務を行う役職)だったのですが、出雲守護(軍事や警察の権限、徴収などが室町幕府に認められている役職)の京極氏に対抗し、月山富田城を奪取して、周りの国を取り入れて戦国大名になりました。

経久の代には山陰・山陽十一州を収めました。しかし、毛利元就の謀略によって、孫の晴久の代の時に、武に長けていた「新宮党」を滅ぼしてしまいました。それによって、尼子氏の戦力が弱体化してしまいました。また晴久も急死し、その隙を狙われ、毛利氏によって月山富田城が兵糧攻めされました。籠城の末、尼子氏は降伏し没落しました。

その後、山中鹿之介を中心として尼子勝久を擁立し、一時期は月山富田城にまで攻め込みましたが、力及ばず敗れました。そして、織田信長の力を借りて尼子氏復興をしようとします。しかし、上月城を任されたのですが、毛利軍に囲まれてしまいます。そして、勝久は自害し、鹿之助は暗殺されてしまいました。

尼子氏滅亡後

その後尼子氏が滅亡し、毛利を経て徳川の時代になりました。その時、関ヶ原の戦いで戦功を挙げた堀尾氏が入封しました。そして、交通の便などをよくするために松江城にお城が移ることになり、月山富田城は廃城となりました。

月山富田城の構造

月山富田城は山城で、その規模の大きさと難攻不落さが有名です。一度尼子氏が毛利氏に攻められ降伏したことがあるのですが、正面から戦っても落とせず、兵糧攻めで落としたそうです。現在ある形は毛利氏以降に整備されたものです。

普段は利便性が比較的良さそうな山中御殿で政務などを行い、敵に攻められた時は、もし山中御殿まで落とされたとしても、後ろにある三・二・本丸で戦えたと考えられます。山中御殿から三の丸に行く道である七曲りは勾配が急で、登るのがとても大変なのでここが一番突破するのが困難だったと思います。

写真

山中御殿跡
三の丸入口付近の景色
本丸跡の石碑

もっと写真撮っとけば良かった。

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